幕末の火鉢にあいそうなお道具
火鉢本体は35cm角(通常は28cm角)と大きめですが、炉が直径22cmなので五徳は五寸か小、もしくは中。
灰均しはもともと付いていたものをお付けします。
火箸も柄が木製のものが非常にしっくりきます。
大正時代につくられた持ち手が漆の火箸(8,000円)が合うと思います。商品として登場させていないので後ほどご覧に入れます。
瀬戸物の炉なのでガンガンに備長炭を燃やしても大丈夫です。
幕末火鉢の特徴
黒柿の取っ手
黒柿は柿の木1000本に1本の割合で見つかる、黒い墨の入った木材。耐熱温度400度以上で非常に固い木材。そのため加工が大変難しく、今の時代に黒柿をここまで磨いて加工する木工作家は皆無。現代の名工と言われる指物師でもやりません。
その取っ手1つ見ても実に見事。
取っ手の内側の底も黒柿。
火鉢に限らずあらゆる作品が、江戸時代に技術の推移を極め、明治からだんだんと簡易になっていく。まさにその手前のもっとも職人技が極まった時代の火鉢と言えます。
渋柿は渋柿として使え。
継木をして甘くすることなど
小細工である。 武田信玄
ほぞ組の中のほぞ組:楔(くさび)
ほぞ組という木の組み方があります。ケヤキや黒柿でほぞ組を組んだものは今は誰も造れません。江戸期の指物師はノミから自作します。そしてこのほぞ組でつくるボックスは、4面全てをイッセーノセ!で組み合わせないと組み上がりません。
その最も困難極まるほぞ組を、楔(くさび)型で組んだもの。これが最高水準の指物の技です。この楔のほぞ組がみられる火鉢は江戸期と、初期の明治ののものだけ。
これだけでも江戸期に造られたものとわかります。
ケヤキという反りやすい木材をガッチリと組み合わせて200年たってもびくともしない。それこそがこのほぞ組を組み合わせた職人が目指していたもの。
炉が陶器
炉が焼き物で出来ています。
これは山形県は庄内地方の火鉢にだけ見られる特徴。
もしかして湿気が多かったのでしょうか。
でもそれなら金沢の火鉢にも陶器があっても良いはず。
お客様からご質問いただきまして、それでもう少し考えてみました。山形は鉄が産出されません。胴はどうなんでしょう。材料の問題があったのでしょうか。
とにかく山形の庄内火鉢には焼き物の炉は珍しくありません。こちらも素焼きの焼き物で、備長炭をガンガンに燃やしても安心です。
素焼きの炉
これが焼き物の炉です。縁がひっかかるようになっています。その縁が割れていますが、ちゃんと全体でひっかかるようになっています。だから充分安定しています。
炉が取り外せるので、灰のお掃除が楽。もしかしたらこのまま移動させて燃えた炭をいれて、それから火鉢に運べます。でも、落とすリスクを考えると火鉢からは灰のお掃除いがいは取らないほうが良いかもしれませんね。
こんな感じでひっかかっています
割れた箇所があるとはいっても、ちゃんと360度でひっかかっていますので安定度は完璧です。
ケヤキの一枚板の無骨さと、この民芸品風の素焼きの炉。幕末の志士がこの火鉢の周りに集まって火にあたっていたかも?と思うと面白いですが、山形はむしろ米沢の上杉鷹山のほうがわかりやすいかもしれません。
上杉鷹山を慕い、鷹山の意志をついで藩を立て直そうとした若者たちが、鷹山から分けてもらった備長炭の火を消すまいと、灰に埋めて燃やし続け、次々と備長炭のもらい火をして同志にわけていました。
そんなことをふと、思い出しました。
幕末のケヤキと黒柿
ケヤキの樹齢は500年〜800年位だと思います。
胸高直径が180cmはあると思われるからです。
またケヤキのこの部分。(右の画像)
太い幹からふた手に別れる部分のY字の部分の年輪です。
ケヤキの瘤部分とこのY字箇所はもっとも硬い部分ゆえ加工も最もこんなんです。さらに固い木はあとで簡単に反ってしまいます。それを抑えるためのほぞ組でもあります。
また上部の縁。
ここの黒柿の模様も見事で、円状の模様は孔雀杢といいます。木材だけみても貴重なものになります。ケヤキなら玉杢、黒柿なら孔雀杢。この同心円は、まだ木が小さい頃の剪定の跡ともいわれています。
木材だけ見ても非常に貴重なものになります。