鉄瓶とは?

鉄瓶工房の様子

鉄瓶は、日本文化に深く根付いた鋳鉄製の湯沸かし器具です。

お湯を沸かして注ぐ道具です。

鉄瓶の原型がつくられたのは1750年頃の江戸時代、南部藩(現在の盛岡)で小泉仁左衛門という人によって作られたのが最初と言われています。

盛岡 鈴木盛久工房の鉄瓶

元々は茶の湯(日本の伝統的な茶道)で使われる茶釜から派生したもので、「鉄瓶」の名前が初めて文献に登場するのは江戸後期。「茶道筌蹄」(さどうせんてい)という書物に初めて登場しました。1816年です。 

茶道筌蹄という歴史書は国会図書館に蔵書ですがオンラインでも閲覧可能です。
https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/wo09/wo09_01408/index.html

鉄瓶の始まり

茶釜に最初に蛇口を付けたのは小泉仁左衛門というのが定説で、これが鉄瓶の始まりとされています。

江戸の中期の頃になります。

それまではお湯を沸かすのは一般家庭ではカマドで鉄鍋を使っていました。

鉄瓶は、元々茶道具として誕生しましたが、江戸の後期ころから日常使いされるようになってきました。特に明治にはいってから各家庭に鉄瓶が1つあるくらいには広まりました。その後第二次世界大戦後は、アルミニウム製のやかんが一般化し、鉄瓶の使用は減少しました。

それでも大正15年に柳宗悦の提唱する民藝運動の復活時期などもあり鉄瓶は再び脚光を浴びます。

昭和にもなんどか鉄瓶のブームがありましたが平成に入ると良質な白湯が採れることから健康面において鉄瓶を利用する方が増えました。こうして鉄瓶は安定して日常道具の仲間入りをし続けています。

南部鉄瓶と地域性

南部鉄瓶という言葉は特に有名でです。そのため鉄瓶は岩手県の特産品としても知られています。岩手でも北部盛岡と、南部水沢と鉄瓶の産地は2箇所あります。また北と南で作り方が異なる部分もあります。

岩手の南部 水沢の鉄瓶
岩手の南部 水沢の鉄瓶 アラレ(左)とナスビ型

南部鉄瓶以外の鉄瓶 関西の京鉄瓶

その他、日本全国で多くの種類とスタイルの鉄瓶が作られていました。江戸〜明治期はもっと多くの場所で作られていたようですが例えば、「関西鉄瓶(京鉄瓶)」は関西地方で作られ、装飾性が高いことで知られています。ただ多くの工房が消滅しています。そのため昔作られた京鉄瓶は古美術としての価値があります。

またこの京鉄瓶の本体の多くが山形で作られていたことも江戸時代の歴史的な事象によります。

江戸時代に紅バブルがあり京都と紅の産地山形の交流は非常に活発で文化も人も行き来していました。こうした背景から現在も京鉄瓶の本体部分は山形で作られているものも多いです。

京鉄瓶の銅蓋

京鉄瓶、また京都の茶釜は蓋が銅です。この銅は富山が有名で、銅蓋の殆どは富山でつくられていました。それは現代にも引き継がれます。

京鉄瓶の代表作

すべて現在は存在していないため骨董的価値は高止まりしています。

龍文堂

骨董の鉄瓶の代表作。最も古い江戸中期1700年半ばに四方龍文(しかたりゅうぶん)なる工芸家が作った鉄瓶がその原型。二代目四方安之助が龍文堂をなのります。またその弟子には亀文堂創始の亀文堂正平や、鉄瓶の作家として名高い秦蔵六などがおります。

龍文堂は代々京都の鉄瓶で昭和33年の八代まで続きました。

盛岡は粘土を使った鋳型に鉄を流し込むの対して四方龍文は蝋燭のロウをつかった蝋型の鋳型を創案。京鉄瓶の最も大きな特徴の1つになっています。これこそ東北の鉄瓶との大きな違いです。

本体に龍文堂造 の銘入りは本家の鉄瓶、多くは銅蓋の裏にのみ「龍文堂造」と刻印あります。

左は珍しい本体に龍文堂の銘あり。銀の鉉と蓋ツマミなど

亀文堂

龍文堂で修行して後に独立した亀文堂は龍文堂の特徴の岩肌をさらに複雑に仕上げていくのが特徴。特にこの亀甲にもみえる紋様は亀文堂にとって最大の特徴です。

大阪の鉄瓶

大國鉄瓶

大國寿郎(おおくにじゅうろう) 明治11年〜が大國鉄瓶の始まりです。現在とても人気の鉄瓶。もともとは大砲などをつくる鋳物師の家に生まれ、息子の大國寿郎が鉄瓶を作ったのが大國鉄瓶の始まりと言われています。

銘は『大國』『寿郎』『春霞堂』など複数あります。

関西・京鉄瓶の特徴として本体と銅蓋の作者が異なり、これらを合わせて1つの作品に仕上げるところがあったようです。

大國寿郎の鉄瓶
金龍堂大國 象嵌 猿鳥紋鉄瓶 本体鋳込み大國造

富山の鉄瓶

金寿堂

蝋型ではなく鋳型の鉄瓶に銀のつまみの銅蓋がのっています。また金の象嵌が見えます。点になって光っているる部分です。

金寿堂 雨宮宗作 

東京の鉄瓶

東京に鉄瓶工房はありませんでした。正確には江戸時代には神田鍛冶町に鍛冶屋さんや釜師が住んでいましたのでその当時は鍛冶町で鉄瓶がつくられていたかもしれません。

現在「江戸鉄瓶」としているのは番頭の私が名付けたものです。もともと江戸川区には鋳物のエリアがありましたが鉄瓶は作っていませんでした。ガラスの鋳型をつくってらっしゃいました。独学で鉄瓶作りを学び、鉄瓶の制作を開始しました。 

最初は東京鉄瓶と名乗ってらっしゃいましたので「江戸鉄瓶」にしましょうということで江戸鉄瓶になりました。歴史的に江戸よりは川越の鋳物が有名で鉄瓶も作られていたように聞いています。

鉄瓶の面白さ・奥深さ

このように鉄瓶には多くの形やデザインがあり、装飾も様々です。茶道具として作られる鉄瓶、生活道具として作られる鉄瓶、鉄瓶を一つの工芸品として最高のものを作る職人さんなど、使用される場所、目的、人物などによって作り方も形も異なります。

そこには江戸時代から続く地域ごとの特色もあり大変面白いものです。当ブログでは師匠からの口伝や歴史書、鉄瓶の産地で得た情報などを記録として残し、皆さんにお伝えしてまいります。